ほしいもの歴史 ほしいも編1
(
サツマイモ編1と
ほしいも編1と
ほしいも編2と
サツマイモ編2
があります)
ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。
ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。
ほしいもの歴史:ほしいも編1
ほしいもは今でこそ茨城県が国内唯一の大産地ですが、歴史は茨城県よりも静岡県、愛知県の方がはるかに早く、中でも静岡県の御前崎地方はその発祥地です。
サツマイモの活用をそれだけにとどめなかったのが栗林正蔵さんです。正蔵さんも御前崎の人です。
正蔵さんは、1795年(寛政7年)生まれですから、大人になった時には既にサツマイモの栽培が普及していたでしょう。しかし偉大な人は目のつけどころが違います。
サツマイモを乾燥させたのです。
その背景には、サツマイモは保存・輸送に困難なことが関係します。
現在でも同じですが、サツマイモの保存には気を遣います。穀物のような訳には行きません。
温度管理が必要だし、そのままでは痛んでしまいます。傷つきやすい欠点もあり、結構重いので輸送も大変です。
そこで正蔵さんは乾燥することを思いつきました。干し芋の始まりです。
最初は生のまま薄くスライスし、遠州のからっ風で乾かしました。「白切り干し」と呼ばれる干し芋になりました。
白切り干しは簡単に加工ができて、正蔵さんの思惑はどうであったかは定かではないですが、保存がきくようにになったことで、とても重宝がられたことでしょう。
(白切り干しについての詳しい作り方は→こちらへ)
そして正蔵さんはこの白切り干しを臼に入れてついて白い粉にし、水と一緒にこねて丸めて、蒸かして、もちの代用品を作りました。「お日和もち」と言って、遠州地域から遠くは江戸にまで売り歩いたといいます。
なかなかの商売人です。
けれどこのままではとどまりません。
正蔵さんは火を入れて干すことも思いつきます。(煮切り干しの誕生です)サツマイモを煮てからスライスして乾かします。曲げても折れないように干し上げていたということなので、煮ると蒸かすの違いはありますが、現在の作り方の原型がこの時点でほぼ完成されていたことになります。
★煮切り干しはいつ誕生したのか?
静岡県榛原郡地頭方村(現静岡県牧之原市)の鈴木幸平さんの「甘藷切干の調査及研究報告」では1824年(文政7年)と記録されています。
その第一は、干し芋は収入になることを示したことでしょう。商いとして成立たせなければ、地域産業にはなりません。思いつきで生のサツマイモを干し芋にできたとしても、できた干し芋が多くの人に喜ばれることに注目できなければ、家庭で消費されるだけで終わります。
干し芋にするために、サツマイモを作り、効率よく干し芋に加工し、流通経路を探してそれに乗せて、しかも販売先の開拓もしなければなりません。
それらを確立したのが正蔵さんだったのでしょう。
この後、干し芋が遠州地域にとどまらず、現在の静岡県、愛知県、そして茨城県まで普及したのはひとえに正蔵さんが道を切り開いたからでしょう。
同じ頃に二人の人が蒸かすことを始めます。(蒸切り干しの誕生です)それが、磐田原大藤村(現静岡県磐田市)大庭林蔵さんと稲垣甚七さんです。
蒸かすことになってのメリットも大きいものがありました。製造量を大幅に増やすことが可能になったのです。
これはタツマでも経験があるので本当によくわかります。
種芋を熱で消毒するのですが、48℃のお湯に40分間漬けるか、蒸気を使って40℃を36時間に保つの二通りの方法がありますが、大量のお湯を準備するよりも、時間はかかっても蒸気を使った方が簡単にしかも多くのサツマイモを一度に処理できます。
この蒸すことと同時にスライスの仕方も変わったから不思議なものです。包丁でのスライスから、ピアノ線でのスライスに変わりました。これで現在の製法が完成しました。
この頃からの違いは、蒸かす熱源が当時の薪からボイラーになったことだけです。それ以外は手作業での干し芋作りで、当時のままと言って良いでしょう。
★保管の設備は格段によくなっています。これは隔世の感があります。また、機械乾燥というものが発明され増えつつありますが、現在でも主流は天日干しです。機械乾燥が普及しない理由は、コストがかなりかかることと、品質が天日干しの方が良いからです。
干し芋にとって品種は重要です。品種によってかなり味に差がでます。また、主要産地の茨城県はサツマイモの北限地なので、保存性も大事なのですが、これも品種によって差がでます。
古い記録が中々なく、かつての品種を断定することは難しいのですが、解る範囲で何の品種が干し芋にされてきたかを記します。
その後は、紀州でみつけた品種が干し芋に合っているとわかり「紀州芋」が主流になったようですが、紀州芋には多くの品種があったようです。「白紀州」「チブミ」「八丈」「伊予紀州」「赤紀州」「青紀州」「立紀州」「新紀州」等。
また紀州芋以外には、「四十日」「正宗」「赤藷」「台湾」「薄赤」という品種もあったようです。
予想していた以上に多くの品種があったようですね。これらの名前から解るのは、現在の玉豊(たまゆたか)のように果肉が白いものから、玉乙女のような果肉がオレンジ、そして人参芋と同じような赤系統まで作られている様子が伺えます。「青紀州」などはもしかしたら、紫芋に近い品種かもしれませんね。
ここで書かれていることは「ほしいも百年百話」「静岡縣特殊物産調査」「戦後農業技術発達史」「甘藷増産記録要領」「いも・でん粉に関する資料」から引用している部分があります。
【栗林正蔵さん】
大澤権右衛門さんの功績によってサツマイモの栽培が薩摩藩から伝授されました。痩せた畑でも育ち、収穫量も多いサツマイモに人々はとても助けられたことでしょう。しかも美味しいのですからなおさらです。サツマイモの活用をそれだけにとどめなかったのが栗林正蔵さんです。正蔵さんも御前崎の人です。
正蔵さんは、1795年(寛政7年)生まれですから、大人になった時には既にサツマイモの栽培が普及していたでしょう。しかし偉大な人は目のつけどころが違います。
サツマイモを乾燥させたのです。
その背景には、サツマイモは保存・輸送に困難なことが関係します。
現在でも同じですが、サツマイモの保存には気を遣います。穀物のような訳には行きません。
温度管理が必要だし、そのままでは痛んでしまいます。傷つきやすい欠点もあり、結構重いので輸送も大変です。
そこで正蔵さんは乾燥することを思いつきました。干し芋の始まりです。
最初は生のまま薄くスライスし、遠州のからっ風で乾かしました。「白切り干し」と呼ばれる干し芋になりました。
白切り干しは簡単に加工ができて、正蔵さんの思惑はどうであったかは定かではないですが、保存がきくようにになったことで、とても重宝がられたことでしょう。
(白切り干しについての詳しい作り方は→こちらへ)
そして正蔵さんはこの白切り干しを臼に入れてついて白い粉にし、水と一緒にこねて丸めて、蒸かして、もちの代用品を作りました。「お日和もち」と言って、遠州地域から遠くは江戸にまで売り歩いたといいます。
なかなかの商売人です。
けれどこのままではとどまりません。
正蔵さんは火を入れて干すことも思いつきます。(煮切り干しの誕生です)サツマイモを煮てからスライスして乾かします。曲げても折れないように干し上げていたということなので、煮ると蒸かすの違いはありますが、現在の作り方の原型がこの時点でほぼ完成されていたことになります。
★煮切り干しはいつ誕生したのか?
静岡県榛原郡地頭方村(現静岡県牧之原市)の鈴木幸平さんの「甘藷切干の調査及研究報告」では1824年(文政7年)と記録されています。
【正蔵さんの功績】
あくまで推測の域をでませんが、栗林正蔵さんは干し芋に関して数多くの功績を残しています。その第一は、干し芋は収入になることを示したことでしょう。商いとして成立たせなければ、地域産業にはなりません。思いつきで生のサツマイモを干し芋にできたとしても、できた干し芋が多くの人に喜ばれることに注目できなければ、家庭で消費されるだけで終わります。
干し芋にするために、サツマイモを作り、効率よく干し芋に加工し、流通経路を探してそれに乗せて、しかも販売先の開拓もしなければなりません。
それらを確立したのが正蔵さんだったのでしょう。
この後、干し芋が遠州地域にとどまらず、現在の静岡県、愛知県、そして茨城県まで普及したのはひとえに正蔵さんが道を切り開いたからでしょう。
【大庭林蔵さんと稲垣甚七さん】
今では干し芋は蒸かして作るのが当たり前です。煮るから蒸かすに変わったのは1892年(明治25年)頃と言われています。正蔵さんが煮てから約68年後、かなり長い間蒸かすには至りませんでした。コロンブスの卵といったところでしょう。同じ頃に二人の人が蒸かすことを始めます。(蒸切り干しの誕生です)それが、磐田原大藤村(現静岡県磐田市)大庭林蔵さんと稲垣甚七さんです。
蒸かすことになってのメリットも大きいものがありました。製造量を大幅に増やすことが可能になったのです。
これはタツマでも経験があるので本当によくわかります。
種芋を熱で消毒するのですが、48℃のお湯に40分間漬けるか、蒸気を使って40℃を36時間に保つの二通りの方法がありますが、大量のお湯を準備するよりも、時間はかかっても蒸気を使った方が簡単にしかも多くのサツマイモを一度に処理できます。
この蒸すことと同時にスライスの仕方も変わったから不思議なものです。包丁でのスライスから、ピアノ線でのスライスに変わりました。これで現在の製法が完成しました。
この頃からの違いは、蒸かす熱源が当時の薪からボイラーになったことだけです。それ以外は手作業での干し芋作りで、当時のままと言って良いでしょう。
★保管の設備は格段によくなっています。これは隔世の感があります。また、機械乾燥というものが発明され増えつつありますが、現在でも主流は天日干しです。機械乾燥が普及しない理由は、コストがかなりかかることと、品質が天日干しの方が良いからです。
【ほしいものサツマイモの品種】
サツマイモには数限りない品種があります。当然のことながら、今では作られていない品種もありました。そして、日々品種改良されて選抜された品種が世にでます。干し芋にとって品種は重要です。品種によってかなり味に差がでます。また、主要産地の茨城県はサツマイモの北限地なので、保存性も大事なのですが、これも品種によって差がでます。
古い記録が中々なく、かつての品種を断定することは難しいのですが、解る範囲で何の品種が干し芋にされてきたかを記します。
【栗林正蔵さんの頃から明治にかけて】
一番最初は当然ですが、在来のサツマイモを干し芋にしていたのですが、江戸から買って帰ったサツマイモで干し芋にしたら収穫量はまずまずだったが品質が在来種よりも良かったことから、この品種が創成期の品種だったということになります。「朝顔芋」という品種でした。その後は、紀州でみつけた品種が干し芋に合っているとわかり「紀州芋」が主流になったようですが、紀州芋には多くの品種があったようです。「白紀州」「チブミ」「八丈」「伊予紀州」「赤紀州」「青紀州」「立紀州」「新紀州」等。
また紀州芋以外には、「四十日」「正宗」「赤藷」「台湾」「薄赤」という品種もあったようです。
予想していた以上に多くの品種があったようですね。これらの名前から解るのは、現在の玉豊(たまゆたか)のように果肉が白いものから、玉乙女のような果肉がオレンジ、そして人参芋と同じような赤系統まで作られている様子が伺えます。「青紀州」などはもしかしたら、紫芋に近い品種かもしれませんね。
ここで書かれていることは「ほしいも百年百話」「静岡縣特殊物産調査」「戦後農業技術発達史」「甘藷増産記録要領」「いも・でん粉に関する資料」から引用している部分があります。