ほしいもの歴史 サツマイモ2

サツマイモ編1ほしいも編1ほしいも編2サツマイモ編2 があります)

ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。

ほしいもの歴史:サツマイモ編2

サツマイモ自慢になってしまいますが、サツマイモは日本で栽培される農産物の中で、最も効率よくエネルギーを蓄える農産物です。
同じ面積あたりで収穫される農産物をエネルギー換算すると、稲の1.56倍になります。
太陽エネルギーを光合成によって農産物として取り込む量が一番ということです。

だから、救荒作物として普及しました。しかも今ほど甘いものが無かった時代には甘いものとしても重宝されました。
ここでもう一度中国から沖縄にもたらされたサツマイモが、どうやって日本全国に広がっていったかの歴史を振りかえってみます。
【サツマイモ編1のおさらいです】
沖縄は台風の通り道です。稲やアワなどの穀物はその被害を受けやすい作物です。
万暦年間(中国の年号)琉球の野国総管が中国に渡った時に、サツマイモは「台風で被害を受ける穀物とは違う農産物になる」と思い、1605年の公務を終えての帰国の折に、作り方を習って3品種のサツマイモを鉢植えで持ち帰りました。
郷里の野国村に植えたのをきっかけに、近隣の村々に広がって行きました。
その間にも飢饉があり、サツマイモを栽培していた村は飢饉から逃れたことがきっかけになって、国を挙げて普及を促しました。
野国総管が琉球に持ち込んでから、王国全体に広がったのはわずか15年でした。
野国総管が持ち込んだサツマイモを王国中に広めた貢献者は、儀間真常です。彼は、普及活動の他、家人を中国の閩(ビン)州(現福建州)に派遣して精糖の技術を学ばせ国に広げたり、薩摩から綿の種子を持ち帰り、綿産業の発展にも努めた人です。
【琉球から日本への伝来は?】
日本地図を見ればわかりますが、沖縄から九州へは、奄美諸島~トカラ列島~大隈諸島が通り道になります。
寛永10年(1633年)には沖縄から奄美諸島へ伝来していました。この頃からこのあたりでは、サツマイモを「ハンス」や「ハンスー」と呼んでいました。

硫黄島には、宝暦7年(1757年)にカライモドンと呼ばれる長浜平吉さんが琉球から持ち帰ったとされています。ここでは「カライモ飴「カライモ粉」を作っています。
隣の島の黒島では女性だけの「カラオモ祭り」がありました。今では男性も参加して、年3回行われているようです。
いずれもこの地域では、サツマイモがなくてはならない物だということがわかります。

種子島には、元禄10年(1697年)に伝来しています。

これらの伝来とは別に、沖縄から長崎県平戸に、日本本土に初めてサツマイモが伝わった記録があります。元和元年(1615年)イギリス人のウィリアム・アダムスが平戸のイギリス商館長のリチャード・コックスに琉球からサツマイモを寄贈した記録があります。それを平戸の千里ヶ浜付近にコックスが普及させたということです。この地域では今でも「リュウキュウイモ」と呼びます。
また、1615年頃、琉球からいきなり紀伊(和歌山)に伝わった記録があります。
その他にも元禄5年(1692年)伊予今治藩の江島長左衛門為信さんによって、日向の飫肥(おび、現南那珂郡)から伊予(愛媛県)に持ち込まれています。

いずれも前田利右衛門が琉球から薩摩にサツマイモを持ち帰った宝永2年(1705年)とはかなりくい違っています。このところは諸説がありよくわかっていません。
【薩摩から全国へ】
江戸時代の日本は、藩が各地を統治していました。現在の都道府県の関係とは違い、ひとつひとつの藩は独立した国のような存在でした。
ですから、各藩同士の交流もあまりなく、サツマイモにしても、たとえば薩摩藩に伝わってもそれが、違う藩にもたらされることは、何かの理由がなければないのが普通です。
しかしながら、サツマイモは救荒作物として価値が高いことから、人伝えで日本全国に伝わっていったと考えられます。ですからそれらは、公式の記録としてはなく、言い伝えとして残り、知ることになります。

享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年)でも薩摩の国では飢え死にはなかったとされています。もちろんサツマイモが救荒作物として活躍したことはいうまでもありません。


言い伝えのひとつとして、下見(あさみ)吉十郎さんがいます。瀬戸内海の島々にサツマイモをもたらしました。
正徳元年(1711年)または正徳3年に、薩摩国伊集院村の百姓土兵衛から種芋を持ち帰りました。利右衛門さんが琉球から薩摩に伝えてから6~7年目、吉十郎さんは僧として全国行脚していた途中でした。
土兵衛さんからサツマイモの由来、作り方を聞きその良さを知ってなんとか郷里に持ち帰ろうと考えました。藩外への持ち出しは厳禁ですから、着衣の奥に隠して肥後国に持ち出したそうです。
瀬戸内海の島々は、穀類に恵まれません。サツマイモにための段々畑を作り普及しました。急速に広まったようです。
この地方の人々は吉十郎さんを「芋地蔵」として祭っています。


長崎県の対馬にも言い伝えがあります。
長崎県平戸ではなく薩摩から正徳5年(1715年)に、老農の原田三郎右衛門さんがサツマイモを持ち帰ります。
対馬にはこの頃、お奉行の陶山(すやま)鈍翁という方がいましたが、鈍翁には「甘藷説」等の著作がありますが、その中でサツマイモのことを“孝行芋”と名づけているそうです。


享保元年(1716年)に島利兵衛さんが京都へもたらしたサツマイモのことでは二説あります。
ひとつは、摂家の一条兼良が、薩摩宗信から寄進を受けたサツマイモを、利兵衛さんに作らせ広がった説。
もうひとつは、不正の罪で硫黄島に島流しになっていた農夫の利兵衛さんが、赦免で帰国の折に種芋を貰い受けてきた説です。
どちらが本当かはあわかりませんが、利兵衛さんは「甘藷翁」「芋宗匠」として敬られました。


現在の中国四国地方へは、享保18年(1733年)に石見国(島根県)の代官、井戸正明さんが薩摩国から種芋を入れて普及させました。正明さんは「芋代官」と呼ばれました。
正明さんの領内は痩せた不毛の地が多く、コメの凶作が深刻でした。ある時一人の行脚僧からサツマイモのことを聞き、幕府に頼んで薩摩藩から種芋を入れてもらいました。


正明さんが幕府に種芋を依頼した翌年の享保19年(1734年)には、薩摩から取り寄せたサツマイモが江戸の小石川に準備した甘藷試験場で試作が開始されています。有名な青木昆陽さんの活躍です。
試作に成功したサツマイモは翌年の享保20年には、小石川薬園と養成所内で10a栽培されています。また、下総国馬加(まくわり)村(現千葉県幕張)と上総国不動堂村(現千葉県九十九里町)でも試作されています。
展開が速いです。サツマイモが優れていたことと、飢饉が深刻だったことでしょう。

馬加村ではその後作付けが順調に伸びたようですが、不動堂村では悪評が立ち、試作は1回で終わりになりました。新しいものが受け入れられない村だったのでしょう。


北陸地方は伝播が遅かったようですが、天保の飢饉(1832~33年)で救荒作物としてサツマイモの栽培の必要性を痛感しました。飢饉後には広がっていったようです。
越後地方ではサツマイモを「浜芋」と称して、盆礼の贈り物にしていた風習があったようです。


東北地方には昆陽さんが江戸で試作してから約90年後の文政8年(1825年)に川村幸八さんによって仙台に移入されています。幸八さんは「東北の昆陽」を称された人です。
サツマイモの弱点は寒さです。寒冷地での栽培や貯蔵にはかなりの苦労をしたことでしょう。
慶應3年、幸八さん80歳の時に、時の藩主の伊達楽山公が賞状と賞品を贈っています。


山形県庄内地方の西田川郡浜中(現酒田市浜中)にサツマイモが伝わったのは2説あります。
安政3年(1856年)藩士 奥山長左衛門さんという説と、同じく藩の田中宮門さんが新潟から入れた説があります。


明治時代には岩手県にまで北上しています。
岩手県南部、当時の水沢県の惨事として赴任した吉田信敬さんが持ち込んだとされています。信敬さんは山口県の出身でした。サツマイモに馴染みがあったのでしょう。
作物を作っていない広大な土地を見て、サツマイモの栽培を奨励しました。しっかりと地質、地形、気候も調べて確かめてから導入しました。関東から種芋ともに指導者まで招きました。結果は成功です。
救荒作物というよりも農業振興のためでした。


農業振興の例は、明治元年(1868年)滋賀県伊吹村弥高に移入された記録があります。
水稲は反3俵しかとれなず(これは通常の半分以下です)、しかも旱魃時には収穫がゼロになる土地でした。
松木五郎さんは、地域振興を色々試していましたが上手くいかずにいましたが、たまたま尾張の旅の途中でサツマイモ畑を見かけました。なんとか地域振興をしようと必死だったのでしょう。種芋を持ち帰り春を待って教えられた通りに栽培しました。予想以上の出来だったので、村人に広げて作らせました。数年後には、彦根や長浜にまで広がったそうです。
弥高は明治以前は坂口という地名だったので、このサツマイモは「坂口芋」といわれました。(「弥高芋」の名でも残っています)


伝来して行った言い伝えとは違う言い伝えを2点紹介します。

長崎県の五島地方は江戸時代の早くからサツマイモが作られていましたが、栽培していた品種がこの地方には合わない品種でした。
慶應元年(1865年)に福江島の漁夫が種子島からもらってきたサツマイモを作ったところ、収穫が良くて貯蔵もきくものであったために、このサツマイモが普及したそうです。


もうひとつは、享保の末頃、1735年頃の高知県にサツマイモが伝わった話です。
薩摩から土佐へサツマイモが伝えられたルートは、薩摩のカツオ船が漁期に土佐清水に入港します。その時にサツマイモを持ってきて土佐の人に栽培を勧めたという話が残っています。


最後に、サツマイモの街川越にサツマイモが伝わった言い伝えです。
川越のサツマイモの代表品種は、“紅赤”です。これは昆陽さんが薩摩から移入して小石川で作った、サツマイモの原形に最も近い品種である“八房”から分かれた品種です。
この紅赤は埼玉県北足立郡木崎村(現さいたま市浦和区針ヶ谷)で発見されています。
これがどうやって伝わったのかが2説あります。
どちらも、埼玉県入間郡柳瀬村南永井の旧名主、吉田憲吉さんの家の寛延4年(1751年)の古文書からです。
ひとつは、名主の弥右兵衛さんが弥左兵衛さんを上総(千葉県)まで遣わして種芋を調達させて、栽培し広がった説。
もうひとつは、享和元年(1801年)に埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)に代官として赴任した早川正紀さんが作らせたサツマイモが元であるという説です。



サツマイモは、主食の稲や、かつては重要な食料だったアワ、ヒエ、キビ等の雑穀と比べると新しい農産物です。江戸時代に中国から琉球に伝わり、そして急速に日本全国に広がって行きました。

稲や雑穀はその保存が良い特性から主食としてとても優れています。豊作があれば一年分とは言わずそれ以上の保存が可能です。それゆえに次世代に種を残すことに対して、サツマイモとは比較にならないほど安全に種を残せます。
また一粒の種が、秋にはたわわに実るという収穫量の良さがあり、しかも雑草にも病害虫にも強いたくましさもあります。
それに加えて、稲=コメのご飯の美味しさは他には代えられません。
瑞穂の国と言われるように稲作は日本人には欠かせない農作物です。


サツマイモはそんな稲に追いつくかのように日本人に受け入れられました。
保存性こそ稲や雑穀に劣るものの、寒ささえ克服すれば、栽培においてのたくましさは稲や雑穀に引けをとりません。
大抵の農作物が育たない痩せた土地でも、水が引けない場所でも、たとえ旱魃が訪れても、サツマイモはしぶとく実をつけます。
ひとつの種芋からは何本もの苗が出来ます。ひとつの種芋が残す子孫は、現在でも日本で栽培できる農産物ではサツマイモを超えるものはありません。

サツマイモは主食としての味はコメに譲るかもしれませんが、充分に主食となり得る美味しさがあります。しかもサツマイモはデザートとしてそれだけで私達を楽しませてもくれます。


稲とサツマイモは日本になくてはならない農作物です。
そのサツマイモをお菓子として楽しめる最高の形になったのが干し芋です。
現代の華やかで無数にあるデザート(チョコレートやケーキ等)と比べればあくまで脇役でしょう。
しかし日本人本来の心である、侘び寂びを想わせるお菓子です。

食卓におかれていても控え目な存在ですが、干し芋があることで“ほっと”できるそんな優しい食べ物です。



一部を坂井健吉著「さつまいも」から引用しています。