ほしいもの歴史 ほしいも編2
(
サツマイモ編1と
ほしいも編1と
ほしいも編2と
サツマイモ編2
があります)
ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。
ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。
ほしいもの歴史:ほしいも編1
【大正に入って】
先に述べた品種を凌駕する品種が大正初期に現れたようです。反収(畑1反あたりの収穫量)が他の品種よりも2割多く、製品歩留まりも良い品種が発見されました。
1913年(大正2年)、御前崎新谷の漁船海神丸が、八丈島でみつけた「細蔓(ほそづる)」という品種です。
この品種は人気があり、戦後まで作付けされていました。
1927年(昭和2年)の静岡県農業試験場の報告書には「細蔓に匹敵するものなし」と記録されているほどの品種でした。
とは言うものの細蔓とは違う品種が全くなかったわけではなく、「飯郷(いいごう)」「亜米利加」「二十日」「佐久川」「アイノコ」「アジヨシ」「元気」という品種があったようです。
細蔓から飯郷や白飯郷に序々に替わって行った記録もあります。この記録には茨城県では飯郷種が主要品種だった記録もあります。
1943年(昭和18年)静岡県では、「農林1号」「沖縄100号」「護国藷(ごこくいも)」「白飯郷」「静岡14号」
を奨励品種としていたようです。ただしこの頃の品種は戦時中の食用・燃料用アルコール製造用の奨励品種の意味合いが強かったようです。
1919年(大正8年)の話ですが、「赤飯郷」の畑から白い肌の芋を発見しこれを元に「磐田」という品種を作った記録もあります。
戦時中はともかく、奨励品種があったり、独自に優良系統の選抜をしたりしていたことは、干し芋が人気があったことや、経済的にも注目される農産物であったことがわかる裏づけです。
余談ですが、
優れた品種が現れると余程のことがない限り、主役の座がとってかわられることはありません。
現代の茨城での主要品種の玉豊(たまゆたか)も昭和30年代からの人気品種です。稲作に目を向けても同様です。1956年(昭和31年)に品種登録されて、1979年(昭和59年)から今に至るまで、毎年作付け面積NO.1を保っているのは、コシヒカリです。
【では戦後は】
終戦という出来事は余程のことです。「細蔓」や「飯郷」にとって変わったのは「関東22号=白千貫」です。従来の品種に比べて1個あたりの大きさが倍以上に育ったからでした。
しかしこの関東22号は干し芋にして甘みが少ない品種でした。戦後間もない時期はともかく、時とともに干し芋用としては廃れていったようです。
替わって「泉13号」や「泉35号」の名前が1952年(昭和27年)の「農耕と園芸」の記事として出てきます。泉13号は1938年(昭和13年)に泉正六が育成した品種で、現在でも静岡産干し芋では主流、茨城産干し芋でも大変に人気がある品種です。
静岡では関東22号から泉へと替わっていったのでしょう。
泉種とは別に人参芋も関東22号に替わって作付けされていったはずです。
タツマとお付き合いがある静岡県磐田市の干し芋農家は大正15年生まれです。若い頃から人参芋一筋です。この農家の人参芋は石川県で育成された「兼六」という品種です。
この干し芋農家の話を聞くと泉種が主流になる頃にあわせてこの兼六を含め人参芋が広まったのではないかと思われます。
【茨城では】
茨城でも戦前は「飯郷」主流でしたが戦後は序々に減ります。食料難から関東22号が増えたのは前述しました。それ以外には「農林13号」「太白」が作付けされていたようです。関東22号と同じく収穫量が良い「沖縄100号」や、猫またぎといわれるほど品質に問題あった「茨城1号」もわずかですが作付けされていたようです。
前にも触れましたが現在は「玉豊」が主流です。玉豊は1961年(昭和36年)に導入されています。戦後から玉豊が全盛になるまでは様々な品種がその用途により作付けされていました。
【静岡から茨城に干し芋産地が移った歴史を追ってみます】
干し芋発祥から長い間静岡が品質面でも生産量でも全国をリードしてきました。その静岡から生産量NO.1が茨城に移った年を調べました。静岡県の生産量のピークは1953年(昭和28年)の7875トンです。
同じ年の茨城県の生産量は2812トンですが、この頃から急成長します。
1954年は4300トン、1956年は12000トン、1957年は16000トンの生産量になります。
ですから1955年に静岡県と茨城県の生産量が逆転したと思われます。
【そもそもいつ、茨城のどこで、ほしいもを作り始めたのか?】
茨城県阿字ヶ浦の照沼勘太郎という人が23歳の時に、船で静岡県沖で遭難、この時に干し芋を見た。その後1895年(明治28年)勘太郎さん30歳の時に見てきた干し芋作りを見よう見真似ではじめた。というのが最初のようです。この話は茨城県で初めて干し芋が作られたことを現します。
地域をあげての干し芋作りは勘太郎さんとは違う人達の登場で発展します。
【湯浅藤七さん】
世の中うまく出来ているのか、こんな偶然があるのか、ともかくこの湯浅藤七さんと干し芋との出会いもとても不思議な縁です。藤七さんは福島で事業を失敗して、那珂湊(現茨城県ひたちなか市湊)に帰ってきました。せんべい屋を始めたのですが、1908年(明治41年)に干し芋の製造を始めました。そして販売して現金収入を得ました。
藤七さんの功績は3点あります。せんべい製造の設備を干し芋製造に流用したこと。干し芋を売ったことです。
もうひとつの功績は、実際に静岡に行き(正確には宮崎利七さんに派遣された)技術の習得に努めたことです。これが機になったかはわかりませんが、静岡から技術者が那珂湊に招かれてもいます。そして干し芋の生産販売を個人規模の商売から、企業規模にして収益も上げたことです。
藤七さんが事業を失敗しなければそれらの功績はなかったことになります。
そして那珂湊には、これを見習う土壌がありました。漁業者や水産加工業者です。彼らの製造設備や道具は干し芋の製造に流用できたからです。そして干し芋は冬場の仕事ということもうってつけでした。冬場は魚の水揚げが減るので、生産設備の稼働率を高めるのに干し芋が一役買いました。
この状況は現在でも見られます。
比較的冬場に仕事が薄くなる業者が干し芋を手がけているのはめずらしくありません。土木建設業が干し芋作りに参入している例もあります。
また、干し芋のタツマでも干し芋加工で忙しい冬場には、お米農家に手伝いに来てもらっています。これもめずらしい話ではなく、ひたちなか市周辺から出稼ぎで、住み込みで干し芋作りを手伝いに来ていた話は、昭和30年代ではよくあったことを年配の干し芋農家から聞きます。
当時は映画全盛の頃で、出稼ぎで来た人たちの休日の楽しみは映画鑑賞だったそうです。当然ですが、那珂湊にも映画館があり賑わっていたようです。
【小池吉兵衛・大内地山(ちざん)兄弟】
大内誠司さんは小池家に養子になり、吉兵衛と名のりました。この方も干し芋の創始者と言われている方です。大内地山さんは本名は逸朗(いつら)と言いました。地山は号です。たくさんの文献を残しています。その中に兄の吉兵衛さんの功績が記されています。
地山さんが記した「前渡郷土史」には、吉兵衛さんこそが「切乾甘藷の製造創始者」とか干し芋の創始者は「誰が何といはふと小池誠司であると信ずる」と書いています。
他にも、干し芋の品質を静岡と比べたことや、販路を福島県以北に求めたことなど吉兵衛さんが試行錯誤して干し芋を産地に根付かせた記述があります。
群雄割拠ではありませんが、干し芋が茨城に伝わった当初は、藤七さんはじめ多くの方が良い意味で競いながら干し芋生産を軌道に載せて行ったのでしょう。
地山さんは、青少年教育や郷土史の研究などを通じて地元に貢献した人だったようです。干し芋に関しては吉兵衛さんをどこまでサポートしたかは不明ですが、研究熱心さはきっと兄弟共通だったのではないでしょうか。
【大和田熊太郎さん】
湯浅藤七さんや小池吉兵衛さんが干し芋を家業から企業レベルにしたものを、地域産業とする音頭をとったのが大和田熊太郎さんです。1865年(慶應元年)に長砂(現ひたちなか市長砂)に生まれ、村会議員、郡会議員を経て1906年(明治39年)に前渡村長に就任、県会議員にもなっています。1902年(明治35年)に前渡村農会が設立されると農会長も務めています。バリバリの政治家ですね。
干し芋を地域産業に育てようと考え、それを頑なに実行しました。その背景には、当時の農家は貧窮していた。村の財政は破綻していた。「難治村」とまで呼ばれていた前渡村(現ひたちなか市)をなんとか立て直したいという想いがありました。
自ら現静岡県磐田市を視察までしました。先頭に立って行動したのでしょう。
静岡の製造方法や販路も調べ、干し芋で地域おこしを進めました。また、静岡から製造技師を招いて地区単位での講演会も開いています。
そのかいあって干し芋の生産は増大、何よりも苦しかった農家の台所が潤った功績が素晴らしいです。
【森正隆さん】
この方も不思議な縁を感じます。正隆さんは1907年(明治40年)に茨城県知事になったのですが、前職は静岡県内務部長だったのです。
前渡村を立て直した熊太郎さんに、干し芋の振興を進めてバックアップしたことはほぼ間違いないでしょう。
茨城県ひたちなか市は干し芋の生産の適地であることは間違いないのですが、(適地とは、気候・風土・地理的・政治的・歴史的な条件がそろっているということで)それは必要条件です。いくら条件がそろっていても、困難は必ずつきまといます。
それらを覆すには熱意も努力も必要です。そして運も。
薩摩藩の船が難破したことから、勘太郎さんが難破したこと。藤七さんが福島で事業を失敗したこと。吉兵衛さんと地山さんが兄弟であったこと。熊太郎さんが村長になったときに、たまたま前任地が静岡だった正隆さんが茨城県知事になったこと。
皆さんのご苦労はもちろんですが、やっぱり縁や運もあるのではないでしょうか。
静岡も茨城も含めて、今までに登場した偉人の方達も名こそ残ってはいなくても、干し芋作りに生涯を賭けた人も数限りなくいたことでしょう。そしていろいろなことを試したり、工夫も重ねてきて今日、美味しくて健康な伝統食としての干し芋があります。
先達の皆様に感謝。とともに、干し芋のタツマでも今後干し芋ファンの皆様が安心して食べることが出来る美味しい干し芋を作り続けます。
ここで書かれていることは「ほしいも百年百話」「静岡縣特殊物産調査」「戦後農業技術発達史」「甘藷増産記録要領」「いも・でん粉に関する資料」から引用している部分があります。