ほしいもの歴史 サツマイモ1

サツマイモ編1ほしいも編1ほしいも編2サツマイモ編2 があります)

ほしいもは、まずサツマイモを育てること、そして次が干し芋に加工して出来上がります。
美味しい干し芋作りにはその両方が大事です。
それと同じく、歴史にもサツマイモとほしいもはそれぞれに辿って来た道があります。


ほしいもの歴史:サツマイモ編1

【地球規模のお話から始めます】
サツマイモは薩摩芋とも書きます。これは薩摩(鹿児島県)から全国に広がったからです。ですが、その前が当然あります。それを追ってみます。

サツマイモの原産地は南米のメキシコ南部からペルーにかけてと言われています。このあたりはジャガイモの原産地にも近い場所です。しかしながら、大きく違うのはジャガイモは標高の高い冷涼な気候が栽培地なのに対して、サツマイモは標高が低い熱帯性気候が栽培地だったことです。
それは現在日本の作付けからもわかりますね。
ジャガイモといえば北海道をイメージしますし、干し芋産地の茨城県ひたちなか市あたりはサツマイモの北限地と言われています。

では南米から薩摩にはどうやって伝わってきたのでしょうか?
【コロンブス交換】
1492年から続いた東半球と西半球の間の植物、動物、食物、人口(奴隷を含む)、感染症、思考の甚大で広範囲にわたる交換を表現する時に用いられる言葉。(ウィキペディアより)

サツマイモもこれによりヨーロッパにもたらされました。(ジャガイモも)
ただし、ヨーロッパは冷涼なので、ジャガイモの方が普及しました。サツマイモはアフリカ西海岸から大陸を通り、(16世紀に)インド、東南アジア、中国、沖縄、薩摩へとたどり着きました。

これらのルートとは別に、南米から太平洋回りで東南アジアに伝わったとも言われています。スペインが世界制覇していた頃の話です。

また余談ですが、太平洋の島々には紀元前1000年頃には南米からサツマイモが伝播していたと推測されています。
【前田利右衛門さん、青木昆陽さん】
ちょっとサツマイモに詳しい方なら、青木昆陽という人は知っているかもしれません。
サツマイモが救荒作物に優れていると考え「蕃藷考」としてまとめて、1733年(享保18年)に将軍 徳川吉宗に提出しそれが見事に採用され、全国にサツマイモが広まったということで、有名です。
天明の大飢饉(1782~1788年)ではサツマイモがあったから助かった記録があります。

ということで青木昆陽さんは有名なのに対して前田利右衛門さんはあまり有名ではありませんが、利右衛門さんあっての昆陽さんです。
昆陽さんが薩摩から全国に広める前段階の、沖縄(琉球)から薩摩に広めたのが利右衛門さんです。
このあたりを年代で整理します。
フィリピンから中国に伝わったのが1594年、中国から沖縄に伝わったのが1605年(慶長10年)ここまでの順調さに比べるとわかるのですが、この沖縄から薩摩に伝わったのは1705年(宝永2年)ということ。なんと100年かかっています。

薩摩の利右衛門さんが琉球から苗を持ち帰り栽培に成功したそうです。
琉球から薩摩に伝わるのに何故100年もかかったかは不明ですが、障害があったからということは変わりません。ですから利右衛門さんも昆陽さんともども功績は大ですね。

【大澤権右衛門さん】

今度は静岡の人です。干し芋発祥の地静岡で干し芋作りが始まるきっかけになった人を紹介します。
1766年(明和3年)御前崎沖で1隻の船が座礁しました。権右衛門さん達は遭難者24名を救助しました。その船は薩摩藩の船でした。
権右衛門さんはこの船でサツマイモを見つけそれに目を付けたということです。サツマイモは御前崎のような痩せた海岸の畑でも育つと聞き、救荒作物となることに関心を持ったのでしょう。
薩摩藩からの許しを得て、サツマイモと栽培方法を伝授されたそうです。
サツマイモに感じるものがあって地元のためを考えたのでしょう。御前崎の砂地の痩せた畑と、強い海風にも負けないで育つサツマイモはとても重宝されたことでしょう。


干し芋発祥の地に薩摩からサツマイモがもたらされました。ここで一端サツマイモの流れから離れ、どのように干し芋が作られていったかを追ってみます。